トップ鍼灸治療の歴史>日本編

いよいよ日本の鍼灸の歴史である。中国編ではさっさと終わらせたが、日本になるとそうもいかない。ちょっと長いけど暇があったら読んでみてね。

奈良時代以前の日本の医療

日本書紀によれば、大穴牟遅神(オオアナムチノカミ)、小名毘古那神(スクナヒコナノカミ)が万民に創傷、火傷の治療を行なったとあるが、残念ながら鍼灸に関係する記録はないようである。

欽明天皇23年

呉の人知聰は、薬書、明堂図164巻をもって来朝。日本に外国の医書が導入された始まりらしい。

文武天皇の大宝令

日本で始めての医事制度。その中の典薬寮を見ると、官制を設けて、医師、医博士、医生に対して鍼師(5名)、鍼博士(1名)、鍼生(10名)を置いたとある。とにかく当時は鍼科を一般医療の一分科として重要視していたことがわかる。                     

奈良朝時代の鍼、灸施術

文武天皇の時代、当時は漢の医書の諸説が行われている。「素問、甲乙経」の類がその中心となります。医事制度に改良が加えられ、大宝令に「女医博士」の制度が盛り込まれています。

平安朝時代の鍼、灸施術

国内では藤原氏全盛時代。ク−デタ−「大化の改新」により政権を得た藤原氏は、一門の最盛期を迎えます。で、結局時代は繰り返し、藤原一族は権力を一手に握り、いつの世にも変わらないのは庶民の暮らしです。農民は土をなめて暮らしているのにね。ま、今の北朝鮮と似たようなもの、、、おっとこれは余計なお話でした。

この時代、唐との交流が盛んで、唐の医学書もどんどん入ってきています。そのおかげで日本の文化、医療も華が開きます。

丹波康頼というおじさんが「医心方」という本を出版します。これが本邦初の(最古の)医学書となり、全30巻という堂々たるもの。内容は、簡単に言えば、隋唐医書を根拠とし、これに仏教思想の中のインド医学を加えたもの。面倒な話は省略して、鍼灸はどうかというと、ツボの主治とツボのとり方、鍼と灸の禁じ手、鍼のやり方、灸のやり方、鍼灸と服用薬の関係、暦との関係、お灸の際の火のつけ方、鍼灸経穴図などであり、言ってみれば鍼灸の詳しい入門書を日本語で著したものといえるでしょう。

鎌倉時代の鍼、灸施術

この時期、内科の領域で灸治と湯治が盛んに行われるが、庶民がみだりに行いすぎるために、あの有名な坊主「栄西」が「喫茶養生記」を、梶原性全が「頓医抄」を著した中に、その弊害と適用を記している。 

貝原益軒 像
杉山流鍼術 始祖

検校 杉山和一

仕掛人 藤枝梅安

吉益東洞 肖像画

華岡青洲 肖像画

この鍼灸治療の歴史のダイジェストは、筑波大学名誉教授、芹澤勝助著、医歯薬出版(株)「鍼灸の科学、理論編」を参考にさせていただきました。

室町時代の鍼、灸施術

この時期は、なんといっても有名な「田代三喜」(田代まさしじゃないよ)が李朱医学を国内に持ち込み、その弟子の曲直瀬道三が華を咲かせました。この時期より鍼灸は不調。漢方薬を使うほうが日本の医術の基本となってきます。

安土、桃山時代

さて、この時期、いわゆる猿、豊臣秀吉の時代ですね。秀吉といえば、お灸が大好きだったのを知っていますか。何でも「やいと」(お灸の関西言葉)で治ると思っていたみたいです。それはとにかく、この時期、南蛮文化が積極的に取り入れられ、医学にも多大な影響を与えています。

この時期、前述の曲直瀬道三が「啓廸集」を著しています。これも医学史では超有名。これが当時最先端医学であった李朱医学の金科玉条となるわけです。ここで鍼灸の立場で言えば、すごく大事なことですが、この本の中に、鍼灸の重要性が書かれていることです。このことによりわが国では鍼灸が復活します。

京都の入江頼明、良明親子により入江流鍼術が起こります。そしてその弟子である山瀬琢一により、この流派が江戸に伝わり一世を風靡します。

また吉田意休、意安親子により吉田流鍼術が起こります。意休は「刺鍼家鑑」という著書を残しています。

この時期の異色鍼灸師として面白いのは、御園意斎でしょう。京都で起こった一派ですが、打鍼術といい、小槌で鍼頭をたたき、徐々に刺入するという方法です。もとは無分流鍼術といい無分斎という人が始祖ですが、どうして御園意斎が有名になっているかというと、なかなか面白いエピソ−ドがあります。当時の花園天皇の牡丹の花が枯死しそうな状態だったのを、なんと御園意斎が虫を刺して、元気にさせたということです。この功績により御園という姓を賜ったということですが、僕の学生の頃、同級生と話し合いました「アブラムシを刺すなら誰でもできるよなぁ」と。   それにより、意斎流打鍼という一派を立てるわけです。運のいい人です(笑)。

江戸時代前期の鍼、灸施術

この時期の学問の中心は儒学。藤原惺窩林羅山などが有名ですよね。この人たちが李朱医学を勧めたわけです。おかげで李朱医学はおおいに賑わいます。李朱医学の担い手は、道三の息子、曲直瀬玄朔でした。そして、この後に古方派がおこり、その代表者が名古屋玄医となります。余談ですが、この曲直瀬玄朔のお墓参りに行った事があります。「鍼灸の極意をわれに与えたまえ」と願ったのですが、努力が足りなく、いまだにこの有様です(笑)。

この時期、内科医学が湯液(漢方薬)、外科治療に鍼灸という位置づけが出来上がります。代表的な書物としては大村寿安の著した「外科捷経俗書(全6巻)」があります。これはどちらかといえば焼刃療法ですよね。この治療法、今でもチベットの山岳地帯では盛んに行われているみたいです。

ここで超有名な人、貝原益軒という人が、これまた超有名な「養生訓」という著書を残してくれています。この本、もちろん僕も持っていますが、医学、健康に関して非常に大切な事がたくさん書かれていて、今の時代に読んでも決して古さを感じさせません。一家に一冊というくらいお勧めの本です。世間一般では「接して漏らさず」のほうが有名になっているみたいですが、そんなのはごく一部。読むたびに新しい発見があります。古典とはやはりこうあらねばと思います。

さて元和元年、5代将軍綱吉の時代になり、鍼灸の振興を図ります。時の総検校、杉山和一にその事を任じ、鍼治講習所を設け、その広がりはかなり盛興を極めたらしいです。

さて、その杉山和一、幼くして眼を患い、本来ならば武家の総領であるところを棄てざるをえなくなり、一願発起して、鍼術で身を立てようと江戸に出て、時の検校、山瀬琢一に学ぶが、元来武家のおぼっちゃん、暗記力と技術力の覚え悪く、破門にいたるわけです。仕方なく、江ノ島の弁天様に詣で、21日間、断食祈願をしたわけです。そしてその満願の前日、盲人であるがために足元の石に躓き、転んだ拍子に手にしたものは、なんと竹の筒に入った松の葉だったわけです。これにより鍼管術をマスタ−して、修行を重ねて一人前となるというお話です。でも、、、、鍼管術って、それ以前にあったという説がありますが、これはまぁ出世物語ということで(笑)。

ちなみに何故、杉山和一が出世したかというと、時の将軍、常憲公のノイロ−ゼを治したからだといわれています。常憲公は褒美として何でも欲しいものを授けようというのを、和一はこう答えたそうです「何も欲しいものはございませんが、ただ一つだけでいいから、見える眼が欲しいものでございます」と。常憲公は、哀れに思い、眼を授けることはできないが、と断り、本所一ツ目に家屋敷を賜ったということです。、、、ん、、、泣ける話ですね。

さて、これまた余談ですが、筆者はここでまた江ノ島の弁天様まで足を運んで、僕にも何かアイディアをおくれと、断食の修行もしないのにお祈りしました。でもやっぱり駄目でした。でもまぁなんとかこの仕事で暮らしていけるのは、そのおかげかなと思っています。何しろ努力をしていませんから(笑)。その弁天様の場所より少し下ったところに、出世石というものがあり、ロ−プが、、失礼、注連縄が張ってあります。これがなんと杉山和一が躓いた石ということになっています。そして説明があり、この石で躓くと出世しますと書いてあるのです。でもこれ、説明不足ですよね、だって21日間断食修行をしなくてはならないってことが書いてないですから(笑)。

さて、ここで検校とは何かに触れておきます。当時、盲人には組合というものがあり組織立てられていました。不幸にして盲人となったものには生きる道はただひとつ、男なら按摩か鍼師、女ならごぜだったわけです。組織の中に組み入れられることにより自活の道を開いたわけです。この男組織の中で一番低い位が「座頭」だったわけです。いちばん高い位が検校ということです。そうです、映画の中の「座頭市」ですよね。市という名前で座頭という位だったから座頭市というわけです。

ところで歴史に残っていない鍼灸の歴史があります。そうです、闇の世界で暗躍した鍼灸師「必殺仕掛人」鍼師、藤枝梅安です。えっ本当にそういう人が居たの!!!と思うでしょう。そうなんです、本当はいません。あれは作者池波正太郎氏が考えた小説。それをパクったのがTVの仕置人というわけです。池波氏はよく鍼治療に通っていて、その鍼灸師の人からいろいろと話を聞いてあの小説が生まれたそうです。ついでに、もうひとつ、梅安の使う殺人のためのツボは「亜門」というツボですが、よほどうまい角度で瞬間に刺入しないと延髄に達しないそうです。ご存知のように延髄は呼吸中枢をつかさどるため、呼吸ができなくなる、、つまり声を出すことができなくなるというわけです。ちなみに現在の鍼灸師の鍼では絶対にできません。ご安心を(笑)。

江戸時代中期の鍼、灸施術

江戸時代中期はどこからどこまでかというと、ここでは暴れん坊将軍、8代吉宗(マツケン)あたりから、天明あたりまでということにしてあります。この時代、儒学者荻生徂徠、和学に賀茂真淵、西洋学では青木昆陽なんかが有名なところですよね。僕はよく知りませんが、名前だけは(笑)。

医学の世界を覗いてみると、漢方では名古屋玄医の古方派が発展してきて、ここに有名な人物である後藤艮山が登場します。艮山は一派を立てて、その中には香川春庵山脇東洋吉益東洞といった傑出した人物が登場します。

さてさてこの時期の鍼灸の世界は、やはり漢方の古方復興と同じく、古典にに帰れとという風潮が生まれます。江戸では管鍼術の杉山流、京都では打鍼術の御園流、ほかに駿河、吉田流などがありました。

そんな時代の中で菅沼周圭が登場します。鍼灸の世界では超有名な人です。何で有名かというと、面倒くさい鍼灸の古典の世界をすばりと斬って、取捨選択してしまったのです。つまり、とかく面倒な漢方古典理論を初めて批判し、簡単に実用的にしたのです。たとえば、ツボは人体に365穴、左右合わせて750穴くらいあるものをすばり、70穴もあればいいと言い切っています。専門的になるけど、経絡治療の基本である補寫迎随を否定し、人神、行年、血忌などの迷信みたいなものは一切用いず、金銀の鍼を用いず、鉄鍼でよしとして、今までの説を否定して、考察して実用面だけを用いました。

またこの時期、オランダの医師、リ−ネが灸法を海外に紹介しています。ちなみにお灸のことを、今でも学会ではMoxa(もぐさ)といいますが、この時から使われているわけです。

お灸といえば、前述の後藤艮山は「百病は一気の溜滞による」との学説をたて、「内、傷、?、疝の病は皆、遊情の致すところなり、灸法を施して、開表、経を行し、温導し、底を徹すの効を得べし」と説き、熊胆、温泉なども奨励している。同じく香川修庵は灸の大きさ、数量、ツボのとり方などを詳しく、その著「一本堂行余医言」「一本堂薬選」の中で述べています。

江戸時代後期の鍼、灸施術

さて、後期は寛政から慶応までくらいとして、この時期の医学はオランダ医学が入ってきます。この中間のよいところだけをとった医家が、有名な多紀家であり、将軍様の脈をとるシ−ンが、よく時代劇などに出てきています。

ここで超有名な人華岡青洲という人が登場します。曼陀羅華(マンダラゲ)別名チョウセンアサガオを使い、世界で初めて全身麻酔「通仙散」による乳癌(がん)の摘出手術に成功した人です。この人は小説、映画、TVなどでおなじみですが、意外とこの人の業績を知らない人が多いですよね。有吉佐和子の小説「華岡青洲の妻」のテ−マは、なんと嫁と姑100年戦争。その影にかくれて、みなさん業績を忘れているのですよね。でもこの業績、家族の人体実験の上に成り立っているわけですから、ちょっと厳しいですよね。

で、鍼灸はと見てみると、いました、いました石坂宗哲という人です。この人は黄帝内経を主としながらも、オランダ医学の説をとり「孔穴ヲ以ッテ十二経ニ対スルガ如キハ児戯ニ近シト雖モ、経絡ノ説ハナオ講ゼザルベカラズ」といい「骨経」「内景備覧」を著し、人身解剖を論じ、「鍼灸説約」「鍼灸知要覧」を著して刺鍼の方法を説いた。その刺法は、霊枢の「五臓に応ずる刺法」を用い、その的確さにより鍼灸の面目はこの人により一新されました。また、この人の業績で忘れてはならないのは、西洋に日本の鍼術を紹介していることです。西洋では、この鍼に注目し、改良して、注射器が生まれました。つまり、現今医療の注射器の元は日本古来の鍼だったのです。

それとこの時期に忘れてならない人は、坂井豊作という人です。横刺の手法を専らとし、「鍼術秘要」という、まるで忍者武芸帳みたいなタイトルの本を書いています。

明治時代の鍼、灸術

明治維新の大変換機において、政府は西洋文化の導入を基本とした。当然国の医学も西洋医学を取り入れた。それでは漢方、鍼灸はどうなったかというと明治7年の医制で「鍼治、灸治ヲ業トスル者ハ、内、外科医ノ指図ヲ受クルニアラザレバ施術スベカラズ」と規定。鍼灸医術は民間療法にとなり、その政治的生命を失った。
しかし明治35年以降先覚医学者たちはその治療効果を認め、内務省当局は、
明治44年に省令「鍼術、灸術、取締規則」を制定し、免許資格を取得するに至った

この時代に忘れはならない業績を残した人は大久保適斎である。25年におよぶ実験、研究成果を「鍼治新書、手術編、解剖編、治療編」にまとめ発表している。

大正時代の鍼、灸術

明治末期より盛んとなった医学者の鍼灸研究は、大正時代になり、その多大な研究成果が発表された。京都大学、石川日出鶴丸博士は自立神経系と鍼灸治効の関係に着目「求心性二重支配法則」を確立した。他に、京都医大教授、越智真逸博士は腎機能にあたえる灸の影響を発表。また医学博士、青地正皓は「灸の血球、血清に及ぼす影響と灸の本態について」発表した。

昭和初期より現代にいたる鍼、灸術

大正時代より盛んになった医学者による鍼灸医学の研究はますます盛んとなり、九州大学、原志免太郎博士の「灸の血色素および赤血球に及ぼす影響」と「施灸皮膚の組織学的研究」のを発表。また大阪大学小児科の藤井秀二博士は「小児鍼の実験的研究」、金沢医学大学の山下清吉博士「白血球機能並びに核型に及ぼす灸の影響」など、次から次へと発表されて、鍼灸施術の治効の真価を一般大衆に啓蒙することとなった。

第二次世界大戦後日本はGHQの占領下におかれ、医療制度も他の制度と同じく大きく変革された。その中で鍼灸治療は、一時非科学的治療法であるとの烙印を押され「医療施術として今後禁止する」と決定されたが、鍼灸に理解ある医学者、鍼灸業界団体、盲教育関係団体の積極的な運動により、昭和22年「あん摩、はり、きゅう、柔道整復等営業法」が制定された。

この法律は昭和26年に「あん摩師、はり師、きゅう師及び柔道整復師法」と改められ、その後多くの改正をへて現行法に至った。この法律の制定により、従来は営業の免許であった資格が、医師や歯科医師と同じ身分の免許となった

戦時中に途絶えていた鍼灸の科学的研究も昭和23年頃より東洋医学に感心をもつ一連の医学者達により研究が再開された。おもな業績は、千葉医大、長浜善夫博士、昭和医大、丸山昌朗博士の「経絡経穴の研究」、駒井一男博士の「経穴の人体実験」、京都大学、間中喜雄博士の「内臓体表反射、体表内臓反射の臨床的研究」、京大、中谷義雄博士の「良導絡の研究」などなど、たくさんの臨床研究が次から次へと発表された。

(以下 略)

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